コラム

森会長の発言の「わきまえない」考える

森会長の発言の「わきまえない」考える
結論から言うと「わきまえる」ことは決して悪いことではない。その「場」の使い方次第である。
昨日からの報道で、森会長の「わきまえない」発言がやり玉にあがっている。街中でのインタビューでは「わきまえる」と自由に発言できないというコメントが放映されている。著名人や経営者のコメントも「会議では多くの人が何でも発言できてはじめて会議の意義がある」、「男女、年齢に拘わらずアイデアを出し合える社会でないと現代社会では生き残れない」といったコメント紹介されている。そのとおりだと思う。「三人寄れば文殊の知恵」という諺がある。アップルの共同創始者のスティーブ・ジョブス氏も「一人の優秀な人の話を聞くよりも、30人の普通の人の話を聞くほうが良いアイデアが生まれる」と言っている。森会長の発言はそれを抑制するということで、批判の種にされている。もっともなことである。
しかし、前のブロブで述べたように、そのもの全てが悪いということはないはずである。要は「焦点の当て方」、「場」、「使い方」次第である。「わきまえる」は漢字では「弁える」である。理解する、物事の違いを見分ける、心得ているという意味である。
従って、「わきまえる」必要があるケース、「場」もある。例えば公私は「わきまえる」必要があるケースである。それは公私を混同してはならないケースである。公私を「わきまえる」ことができず失敗した例が安倍前首相ではなかろうか。「桜を見る会」などがその実例である。安倍さんとは、森内閣の官房副長官時代、小泉内閣の官房長官時代に、朝食会などで時々ご一緒した。当時「この人は他の政治家にないしっかりとした国家観をもった人だ」と感じていた。公私を「わきまえていた」ら任期まで首相を務めていた人だと思っている。

最近の記事

PAGE TOP