コラム

カブール陥落はサイゴン陥落と「似て非なる」その背景

海外メデアに、アフガニスタンのカブール陥落はベトナムサイゴン(現ホーチミン)陥落と似て非なる、という記事が載っていた。アメリカのブリンケン米国務長官も記者会見で
「This is not Saigon(これはサイゴンと異なる)」と述べている。
現象的には、カブールもサイゴンも米軍撤退の動きに乗じてタリバン、北ベトナム軍が一気に首都を攻略したという事実では似ていると言える。非なる部分については、私の経験から、全く個人的ではあるが見解を以下に述べます。

1975年4月30日、当時副操縦士であった私は、アメリカ人の機長と羽田からバンコクに向かう途中、ベトナムの上空を飛行中、管制官とコンタクトを試みるが、どの周波数でも管制官が出て来ない。
航法援助施設もSGN(サイゴン)のVORという施設だけしか電波が出ていなかった。しかたなく通常使用する周波数と緊急用の周波数で位置情報と飛行高度を一方通信しながら、タイの空域に入った。そこからからはタイの管制官と正常に通信ができて、バンコクのドムアン空港に無事着陸した。
バンコク市内のホテルに入ってしばらくすると、サイゴンが陥落したというニュースが入った。バンコクから羽田への帰りの便は、ベトナム上空は飛行することができなくなり、シンガポール空域に大きく迂回しながら羽田に帰った。
その後、日本は社会主義国となったベトナムとの交流がほとんど途絶えていた。1992年6月17日、当時国際路線室の主席機長であった私は、タイ航空のバンコク―ホーチミン便の往復を、操縦席でオブザーブしながホーチン空港にいき、空港の施設等を調査して東京に戻った。ホーチミン空港には戦争の遺物が少し残っていた。ベトナム人スタッフの優秀さと、国を発展させようとする彼らの姿勢が印象的であった。
翌月の7月8日には、ベトナム戦争終結後、初めてとなる日本からの民間航空便として、名古屋―ホーチミンのチャーターフライトを私は担当した。そして、日本政府も、その年の11月にODA(政府開発援助)を再開した。
ベトナムのあり方と比べると、アフガニスタンが、今後ベトナムと同じような道を歩むとは到底想像できない。「似て非なる」は頷ける。

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